五条川の土砂浚渫から考えたこと

五条川の浚渫作業

久し振りにあま市と清須市の境にある五条川にカモの写真を撮りに出かけました。

すると全くカモ類は見かけませんでした。

ここは冬の間、コガモ、ヒドリガモ、オカヨシガモ、マガモなどが見られるのですが、11月7日の時点では一羽も見かけませんでした。

近くの膠や骨粉を作る工場の上空では、トビとカラスが相変わらず飛び交っていました。

いつものように、カラスがトビを追いかけていました。

いつも見られる光景です。

その五条川で土砂の浚渫作業が行われていました。

灰色の砂状の土砂をシャベルカーで救い上げて、土砂運搬船に入れ込んでいました。

長良川では何年か毎に大規模な浚渫作業が行われていますが、五条川では初めて見かけました。

そんな作業を見て、少し上流の清須城や清洲越しのことを考えてしまいました。

戦国時代、清州は美濃街道と伊勢街道の分岐点の要衝でした。

そのため豊臣秀次、福島正則、松平忠吉(家康の四男)、義直などが城主を務めていました。

この地は五条川の氾濫や城下町の規模が小さいことから、家康は1610年に熱田台地(洪積層)に移転することを決めました。

それが名古屋城です。

今でも清須市の人口は67299人(2020年)ですが、その清洲越しで6万人の人たちが名古屋に移ったと言われています。

武家屋敷、神社仏閣、橋、町屋、門までも移転したと言われています。

その際に色々な物資を運んだルートが五条川でした。

この五条川は少し下流で新川と合流しています。

そして伊勢湾に出て新しく作られた堀川を遡って、資材などを運び名古屋城や街並みを作ったと言われています。

その当時では大都市の移転だったと思います。

今の五条川をみると、とても浅くて船が通れるような状態ではありません。

五条川や新川の浚渫は頻繁に行われなければ船の航行は難しかったのではないかと思われます。

今のように列車や自動車による大型資材の運搬が不可能だった時代には、船による資材運搬が一般的だったのです。

山形県の最上川でも、昔は紅花を積んだ船の行き来のために、頻繁に土砂の浚渫が行われていたと聞いたことがあります。

船の行き来のための川の浚渫がどこでも行われていたようです。

江戸時代の浚渫はどのような方法で行われていたのか、とても興味があります。

きっとシジミ採りのような長い柄のもので頻繁に土砂を取り除いていたのではないかと思われます。

ましては大雨や洪水の時には、土砂が大量に溜まる筈なので、その処理も大変だっただろうなと推測しています。

そんなことを五条川のシャベルカーでの浚渫作業で考えてしまいました。

カモ撮りこうちゃん