船頭平閘門(こうもん)はパナマ運河と基本的には同じ構造かもな!

船頭平閘門

船頭平閘門前に立っている掲載板

分類項目にはずれてしまいますが、定点観測地の環境として書いておきますね。

蟹江の西側には木曽三川(木曽川 長良川 揖斐川)があります。

木曽三川は昔は東海道の難所で、熱田(宮)から桑名まで七里の渡しか、大垣に抜ける木曽川を越える美濃路か、津島から桑名まで行く船旅(3里くらい)かによっていたようです。

大きな川が3つも並んで流れているのです。

西には養老山地があります。

何十万年もかけて地形的には熱田台地から西に地面が押され続けているのですが、養老山地という壁に遮られて三川が集まってきているようです。

明治までは三川は今のように分流しておらず、洪水など川の流れは頻繁に変わる乱川だったようです。

この地域の人たちは輪中を作って、家も土台を高くして洪水から守ってきた歴史があります。

当時この地域には60以上の輪中があったといわれています。

いつも定点観測地にしている福原輪中はその1つですが、その南端に船頭平公園があり木曽川と長良川を結ぶ閘門(こうもん)があります。

明治期になって三川を分流した結果、木曽川と長良川の行き来できるようにしたのがパナマ運河と同じような閘門なのです。

閘門に立っている掲示板には次のようなことが書かれています。

「それまでの木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)は、下流部で川が合流していたため、3つの川を自由に往来できました。その後、洪水害の軽減を目的に、オランダ人技師 ヨハニス・デ・レイケが計画立案し、明治20(1887)年から始まった『明治改修』では、3つの川を完全に分離する『三川分流』が行われたことから、木曽川と長良川を結ぶ船頭平閘門が、建設されました。」

「木曽川は長良川より水位差が、1ヶ月平均で最大約54㎝、最小約8㎝、年平均約35㎝高くなっていました。長良川の水位が高い時は舟筏の通行を停止する考えでした。明治43年に長良川用の小門扉を追加(復閘門式閘門となる)しました。」と記されています。

今まで川の水位はみな同じだと思っていましたが、水位が違えばその水路では木曽川から長良川に水が流れ込んでしまいます。

船舶の通行に支障が起きるでしょう。

閘門が必要になる理由です。

パナマ運河の資料を見ると、細い運河を何度も堰き止めて、水位の高さを調整しながら船舶が通行していました。

そして太平洋から大西洋に抜けていく(逆も)のです。

抜け切ると乗客が拍手している様子も載っていました。

これまで船頭平公園や福原輪中内と歩き回っていると、ときどき公園の駐車場に大型バスが何台もとまって、小学生が閘門の学習に来ているのを何度も見かけていました。

地域学習だと思われます。

今では閘門を利用した船舶通航の光景は見られないようになり、歴史的な記念建造物になっているようです。 

カモ撮りこうちゃん